上京したけど森だった話

~あるICU生のひとりごと~

恵まれているということ、そしてその責任

こんにちは、10月も今日で最後、明日からは11月ですね。今年もあと2ヶ月しかないと思うともっと時間を大切にしないといけないな、とは感じますが出来ていません。そういえば今日はハロウィンですが、渋谷は盛り上がっているのでしょうか?近隣のお店でアルコール類を提供しないなどの条例が出来て、あれだけ毎年混沌としていたものをなんとか押さえることが出来るってすごいな、と感じます。まあ私は行きませんけどね笑

 

今日は最近私の頭の中をぐるぐるしている、「恵まれているということ」について書いていきたいと思います。

 

「あなたたちは恵まれています」

最近授業の中でTA(Teaching Assistant 学生助手)の方が言っていた言葉。何の脈絡からそこに行き着いたのか、よく分からなかったのですが、ICUで勉強しているという皮肉、といった感じの話でした。

まず、ICU第二次世界大戦前・戦時中、中島飛行機という航空機メーカーが飛行機の設計などを行っていた跡地に建てられた大学です。その時研究所として使われていた建物が今は本館として学生がメインで授業を受ける場となっています。

TAの方は、「あなたたちが今勉強している、ここ(本館)では、あなたたちと同じくらいの歳の若者を乗せ、玉砕するための飛行機が作られていた」「あなたたちが今こうやって勉強できていることはとても恵まれていることです」と話していました。そして林修さんの「勉強は贅沢、嫌ならやめなさい」という言葉を引用して話を終えました。

私はこの一連の話に違和感を持ってしまったのです。確かに私はとても恵まれていると思います。このTAの方の話にあったように私は戦争に行く必要がありません。私は私のやりたいことをすることが出来ますし、教育を受ける権利というものを持って、勉強をすることが出来ます。それに小・中・高、そして今のところ大学まで特に大きな問題もなく進んでくることが出来ました。その都度親が授業料や学校に関わるお金を出してくれています。特に大学は高い授業料を払ってもらっているので感謝していますし、本当に恵まれているなと感じます。

ですが私は「あなたたちは恵まれている」という言葉に昔からアレルギーがあるのです。私の父がいつも私にこの言葉をかけていました。「お前らは本当に恵まれてるよ、周り見てみろよ」「俺の時なんてな、家族のみんなはな、こんなに大変な思いをしてきているんだ、それなのにお前はそんなことで悩んで、そんなことして、」私は小さいときからこう言われて育ってきました。

父の幼少期や祖母のことなど、いろいろな話を聞きました。近所の人や私の友達にも家庭や経済的問題で苦労している人がいました。だから自分が恵まれているということは痛いほど分かるんです。私自身ものすごくお金持ちというわけではないけれど、恵まれていると思うし、だからこそものすごく無駄遣いをしたりすることなく少しでも節約したり、物を長く使ったり、たくさん勉強したり部活したり、与えられたものを精一杯こなしてきました。

そんなところに久しぶりの「あなたたちは恵まれている」砲をくらいました。確かに、戦前に生まれ戦争に行かなければならなくなった人や経済状況が厳しくて学校に通えない人から比べると私のようにのうのうと大学に通っている人はとても恵まれているかもしれません。

でも裏を返すと私だって恵まれたところに「生まれてしまった」身でもあると思いませんか?「お前はいいよな、恵まれていて」という父の言葉、「あなたたちは恵まれています」というTAの言葉、私にはどうしても違和感しか感じません。

なぜ人間は贅沢をしてはいけないのでしょうか?なぜ恵まれていてはいけないのでしょうか?私はここに生まれてしまって、私は私のこの人生をたどっていくだけです。将来私だって「恵まれない」環境に陥るかもしれません。でも私はそれで恵まれている人を僻んだり、「あなたたちは恵まれているということを忘れるな」と言いたくありません。

「恵まれている」という人たちにはその人たちの人生があると思います。悩んだり苦しくなったり、勉強嫌だなって思ったりすることだってあると思います。人の悩みや苦しみ、嫌悪などの大小は比べるものではないと思っています。「恵まれていない」人の方が苦しんでいるんだから、彼らはやりたくても出来ないのだから、あなたは文句を言ったり惰性的に生きてはいけない。本当にそうなのでしょうか?

 

重度心身障がい

上記の授業とは別に私が今履修している授業に特別支援教育論というものがあります。上記の授業で恵まれている、の話を聞いたとき私は上で書いたようなことを思いましたし今も思っています。でも特別支援教育論で重度心身障がいというものを知ってこの思いがより複雑になりました。重度心身障がいというのは、簡単に言うと知的障と運動障がいを併せ持った障がいのことです。私がその日映像で見た方は筋肉が動かず、ベッドに寝たきり、気管支切開で話すことが出来ない、意思疎通は微笑みと時々出る声のようなもの、といった方でした。

私はこの授業を受けて「生きるって何だろう」「恵まれているって何だろう」とまた考えさせられました。歩くことも、話すことも、おいしいものを食べることも、大声で笑うことも、勉強をすることもで出来ない、そんな人がいるということを知って、あ、私ってやっぱり恵まれているんだ、と思いました。

 

アメリカの公立学校

またまた違う授業では、授業内で「Waiting for Superman (スーパーマンを待ちながら)」(2010)というドキュメンタリー映画を見ました。アメリカの公立学校では教師が不足、財源が不足、増えていく生徒etc.と様々な問題があり、経済的に苦しい家庭や少数派の家庭は学校に通うことが難しい、通っていても学力の格差などが生まれてしまうといった内容でした。

そんな映画の中で経済的に恵まれず勉強が出来ない子どもを集めて底上げを図るという目的のチャータースクールという公立学校が取り上げられていました。ですがその学校には抽選でしか入学することが出来ません。どんなに強い意志を持っていても抽選というものに勝てるわけではありませんので取り上げられていた子どもたちも抽選に外れてしまいます。学校にすら、公立校にすら通うことが出来ないのか、私はある種の絶望を覚え、そして彼らの恵まれなさを嘆きました。

そもそも「恵まれている」とは何か

このように「恵まれている」と言われることに違和感のある私でも自分が「恵まれいているんだ」と心から感じることはあります。ですが、何を基準に私たちは恵まれているとかいないとかを決めるのでしょうか。収入?学歴?五体の満足さ?親がいること?生きていること?どの要因が恵まれているということを決めるのか、またその要因の中でもどの水準から恵まれているということになるのかは人によって、社会によって、文化によって変わってくるはずです。

「あなたたちは恵まれているんだから」と人は言います。「私は恵まれているんだ」と私は思います。でもこれってとても個人的すぎる感覚だと思うんです。このときに人々や私が恵まれていないと思った人でもその人自身は自分のことを恵まれていると思っていることだってあると思うんです。

私もお金は少しあるかもしれないけれど、だからと言って恵まれていると一言で片づけられたくはありません。短期で変わり者の父に幾度となく理不尽な理由やそんなことで?ということで怒鳴られ、殴られ、叩かれ、蹴られることが当たり前、という家庭で育ちました。いつも父の顔色を見て、今でも、少しでも大事な話をする際には何日もかけて計画し、顔色を窺い実行の時を鑑みます。気を損ねないためです。

逆に、アメリカのチャータースクールに落ちた子どもたちは人生が終わったわけではありませんし、新たな道が見つかった時には、それで良かったと思うかもしれません。

人には人の価値観、ものの見方、感じ方、生き方があって、だからこそ私は「恵まれている」といわれることが嫌なんです。

重度心身障がいの方の話の部分でも、何も出来なくてかわいそうと感じることも出来れば、彼には彼の世界があって、感じ方があって、楽しい・面白いと思うことがあると考えることも出来るはずです。彼は私たちと同じことができないからかわいそうで恵まれていないんだ、と考えるのはあまりに浅はかだと思うんです。だれも誰かを恵まれているとかいないとか、かわいそうとか決めることって出来ないと思いませんか?

 

「恵まれている」人の責任

では仮に社会や人々が私を「恵まれている人」としたとしましょう。あなたは恵まれているんだから。では私はこの恵まれている、を持って何をしたらいいのでしょうか?社会貢献?人助け?恵まれない人たちの支援?私はこの考えだって利己的だと思うんです。多分人のためにならない仕事なんてこの世にありません。将来社会人になってどこかで働く限り必ずそれは誰かのためになるはずです。これは例え自分の好きなことを仕事にしたとしてもです。だとしたら私は「恵まれている人」として特別に何かをしないといけないのでしょうか?

もちろん社会イノベーションを起こして「恵まれない」といわれる人に対して特別なアプローチをすることだって出来ます。「恵まれていない」という理由で排除されてしまう世の中は良くありません。でも「恵まれている人」だけでなく「恵まれていない人」がこういったことをしたっていいと思うんです。これはみんなが持つべき意識であって、誰かが私は恵まれて育ってきてしまったからしなければいけないという責任を持つべきものではないと思うんです。

先程も言ったように、全ての仕事は誰かのためになるはずです。自分のために自分の人生を生きてもそれが誰かの役に立つことだってあると思うんです。

だから誰かに対して「あなたは恵まれているんだから」頑張らないといけないと言う人に私は違和感を持ってしまいます。