上京したけど森だった話

~あるICU生のひとりごと~

格差ってなんだろう

今日の東京は15℃近く、いやそれ以上?あったようでぽかぽかの一日でした。知り合いと食べ放題に行ったのですが全然頼んだメニューが運ばれず、なんだかぼったくられたかのような気分です。高い社会勉強代でした笑

今日は教育社会学の授業で面白いな、と思うことがあったのでここに記しておきたいと思います。

 

格差はなくならない!?

 

今日の教育社会学の授業では「教育においてなぜ不平等が生じるのか」「教育機会の格差がなくならないのはなぜか」の2点を学びました。

日本では高等教育(大学など)への進学率が上昇しているようですが、教育機会(よりよい教育を受けることのできる機会)の格差はなくなっていないそうです。ここにはいくつかの原因があるそうなのですが1番なるほど!と思ったのは「格差持続仮説」という説でした。この説では、進学率が上昇する→レベルの高い人たち・地位の高い人たちがもっともっと良い教育を求める、ので地位の低い人たちの進学率が上がっても地位の高い人たちに追いつくことが出来ない、という説です。例えば、進学率が上昇してみんな大学に行けるようになったとします。すると地位の高い人たちはよりよい教育を求めて留学をするかもしれませんし、大学院に進むかもしれません。そうすると全員が大学進学できたとしてもそこにまた格差が生まれてしまう、ということです。

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格差は悪いことのなのか

 

そこで私は、「じゃあ、格差って一生なくならないじゃん」と思いました。また、「格差のない世界なんてあるのだろうか、そもそも格差ってあってはいけないのだろうか」とも思いました。格差のない、誰もが平等な世界。そんな世界あるのでしょうか?今の私たちが住む資本主義の世界では頑張って結果を残していく人が成功し、そうでない人は置いて行かれます。不公平、と思うかもしれませんが私は頑張って成功しているのに、頑張っていない人と同じ扱いしかされない世界、というのもまた不公平だと思ったりもします。

そんな私の疑問に対して教授は、「格差があることではなく、格差の作られ方」が問題だと言います。例えば先程の例に挙げたように、全員が大学に行けるようになったとしても、そこで留学に行ったり大学院に進むことが出来る人と出来ない人では格差が出来てしまう、と考えることが出来ます。でもこれは、留学に行くことは良いことだ、大学院に行くことは良いことだ、だから行けない人との間には格差が生まれてしまう、という誰かの勝手な価値観や基準だと捉えることもできます。誰かが勝手にこれは能力の高いことでこれは低いこと、これは生産性があるから良いことで、こっちは生産性が低いから悪いこと、と決めつけてしまうことで生まれる格差というのは非常に偏ったものになってしまいます。格差というのはもともとあるものではなく、誰かのまたは社会の「これは良くてこれは悪い」「これは普通でこれはかわいそう」という基準や価値観によって作り出されてしまうものである、そんなようなことを教授は言いたかったのかな、と思っています。

 

とはいえ、今日、明日の生活さえもままならないような圧倒的貧困と優雅な生活という格差は確実に存在するわけで、悠長に格差とは誰かによって作られる概念だという考えはあまり理解されにくいかもしれません。貧富の差があまりにも大きく、貧困にある人たちが生きていくことさえ危ういような状況はあってはならないものだと思います。ですが最低限の生活を全ての人が持てるようになったとき、「格差」というのはどこまで縮めるべきなのでしょうか。貧困だからと言ってその人たちが何ももっていないわけではありません。経済的な格差を縮めることは容易ではないでしょうし、資本主義社会において難しいことです。ですが経済格差は決して人間としての格差であってはいけないはずです。「格差」(という枠組み)を作り出しているのはいつも「上」にいる人らしいのでこの「上」の人たちが、一人一人の持てる力、既に持っている力を見つけ、高めていくことができたら「格差」は縮まったり、なくなっていくかもしれませんね。